コメント

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漠然とした不安が覆う世界になってしまった。そんなとき人々は「明快」なものに飛びついてしまう。そして、過去を振り返れば、そんなことが多くの戦争や虐殺が起こる要因になっている。

私は二人の畠山さんを知っている。二人は一つの映画を作った。そこで著名なカメラマンである方の畠山さんは生まれ故郷である東北の被災地を撮影しながら、または自分の写真を見せながら、たくさんの言葉を語る。それらはまったく明快ではない。結論なんて出ていない思考の途中の断片たちだ。いや、この人は結論なんて出そうとしていないのかもしれない。

もう一人の、映画監督の畠山さんはそんな言葉を丹念に取集して、作品を完成させた。それは、これまで多くあった震災ドキュメンタリーのように「さあ、泣いてください!」というシーンはなく、「がんばろう!」もない。彼は、そんなまったく明快ではない作品を世に出すことができる、強い人だ。

私はそんな二人の畠山さんのような人こそが、かなり大げさな表現になってしまうけれど、世界を救うと思っている。

村上賢司さん(映画監督・テレビディレクター)

途方に暮れながら、黙々と現実に向かい合う写真家の立ち姿が、語りかけてくる。いま、この世界にはどのような意味があるのかと。それに対する応えの糸口が、スクリーンの上に確かに映し出されるのを、観客は目撃することだろう。

野崎歓さん(仏文学者)

向こうから来た圧倒的な力に、畠山直哉はいくつものものを根こそぎ凌われた。故郷・陸前高田、肉親、写真、写真という思考。でも震災のあった直後から、畠山は故郷・陸前高田に、自分の中の記憶の故郷に、写真という思考にレンズを向け続けている。思考をしながら、写真を形成してきた思考を再構成しながら。いや最高というような生易しいものではないだろう。彷徨、慟哭… 当事者から遥かに遠い私には想像も付かない。それでも写真を撮っている畠山直哉。思考しながら。いったいこれはどういうことなのだろうかと。

胸を衝くのは、この映画に写っている震災後の2年間の畠山直哉の写真が大きく変化していることだ。陸前高田の風景が、瓦礫から更地になり造成されていく激変を受けて。それは自分の見たことのない畠山直哉だった。考えることに正直に写真を撮ってきた畠山直哉だがら、当然の帰結 だろうが、この映画がなければ自分は気付かなかった。

今野裕一さん(編集者)

「Natural stories」 (東京都写真美術館個展/2011)にあった陸前高田のイメージ、これはスナッ プ写真と言っていいものが、グリッド状に組み込まれているということが私には理解できなかったところが実はあるんですね。この映画の中で言うところの畠山さんのモヤモヤだと思いますが、そのモヤモヤがどう解消されていったかを、この映画で綴られていた様な気がします。「気仙川」と「陸前高田 2011-2014」という写真集が出て、写真展も行われて、そこに畠山さんはとても すばらしい写真を寄せていた。その素晴らしい文章とこの映画で語られている極めて率直な言葉の数々、それがとてもシンクロするものだったと思いました。例えば、こんな世の中本当に生きていくのが嫌になったみたいな発言ありましたね、非常に不機嫌な様子、言葉だけじゃなくて、陸前高田に掛かる虹の風景写真とか、恐らく虹を撮ることは本当に素朴な行為で、畠山さんの様 な仕事をされていた方だと普通は撮らない写真ではないかと、そういったものが2011年以降の畠山さんの写真の中に含まれていると、それは敢えてしいるのか、自然となっていることなのか、色んなことがあると思いますけど、そのことを跡付けていくのが彼の言葉ではないかと私は思いました。言葉が無ければ写真だけで自律するという話しではなくて、ある時間を掛けて作りあげ て行く、例えば、震災から4年が経っていますけど、その中で畠山さんが陸前高田に寄せる仕事と言うのも、ある一定の成熟を得てきていて、非常に説得力のあるものになってきている。その時期にこの映画が公開することも意味があることだと思います。

倉石信乃さん(写真評論家)

畠山直哉さんは非常にゆったりとお話をされて、日本人じゃないという感じですね。ある種の特別な人種なんですよ、畠山直哉という。日本人とかフランス人とかアメリカ人とか、アジア人とか ではなく、そういう人種が固定であるのではないかと。その姿がこの映画でとってもよく出ていました。僕の知っている畠山直哉さんが歩いているという感じがしましたね。
ドキュメンタリー映画という分野なんだけど、「ただ一緒にいただけ」という気がします。畠山直哉という人は隣にいる監督のことは分かっているけれども、気にしていない、隣にいることが当然の人だと思っている。撮られていることも分かっているし、恥ずかしいと思うこともあるかもしれないけど、でも撮られて当然だという感じが漂っている。それはドキュメンタリーという よりは、一緒にいて撮ったという、これは僕が一番好きなんです。

畠山直哉さんは、撮影現場に足跡を残すのですが、この映画の中ではそれを綺麗に消えていました、魂とか情念とか、心みたいな日本風にしか言えない何かが、見ている人の負担にならない様になっていて、ほんの少しの先の未来、半歩くらい先の、へたするとそこでずぼっと嵌ってしまうような所を、監督の思っているある種の共感、共感だけでは終わらない何かで断ち切る、そう いうものが感じられました。それが一番印象に残りました。

堀江敏幸さん(小説家)

うしろ姿というものは、とても良かったと思いました。後ろから追っかけて行けば背中ですよね。
普通ドキュメンタリーを創る定番としては、面と向かって行くというやり方が多いと思いますけど、後ろ姿って無言なんだけど、色んなものを語るじゃないですか。そこをキレイに収めて、脚色しない、あれは直哉さんの弟子っていう感じがしました。直哉さんの撮影は、まず受け止めるということから始めていると思います。まとめ方の誠実さというか、みんなが盛り上がっていても、 フッと、ちゃんと距離を置いたところがあって、そういう精神的なものをどこに置くか、心を感じさせる。距離をとったことで、畠山さんの変化も見えてくるし、とてもいい描き方だったと思います。

ミルキィ・イソベさん(ブックデザイナー)

被写体をとる、被写体という対象があるのが前提で写真を撮る写真家ですが、
津波に洗われた後の、陸前高田にある被写体は、「そうであったはず」の既知のイメージは削げており、自らの心像と事実あるモノとのあいだの、奇妙な対面が、レンズを通して立つ畠山直哉にあってあるような気がするのでしたが、畠山氏は、淡々として眼前にあるモノを写していました。! 「在る」ことが前提の「被写体」から、「ない」ことの被写体、というよりすでに知っているはずの「既知という前提」のない被写体に対面していること。
「在る」と「思えるもの」ではなくて、「無い」という空白に充実と実在がある、というような。過去(=既知は不在であり)と現在(=実在の今)の反転。(こころ=記憶では、過去=既知が「在る」はずなのに、実はそれは「無い」。実在の現場では、眼前の実物の今だけが、「在る」。
だから、空白の白の画用紙に、心像にある記憶の過去=家の作り、間取り、家族の住まい方の歴史を、なぞるように書きだしている。過去が無いのだから、現在の「無いという実在」=空白に、あらたに未来となるしかない記憶をえがく・・?
被写体のない空無の被写体を撮る行為にも似て。
プロの写真家「病」があるとすれば、カメラのレンズを外に向ける時、美的なバランス、構成を無意識のうちに焦点合わせて撮っている、ということ。
作家に「既に仕込まれた」心像が、無意識的に画像の構造を定めてしまってないか?
という問題に、畠山氏が踏みこんでいっているようにも思えましたが・・

常に「対象」「主題」をもって描く、撮る、というこれまでの近代的なゲイジュツ論とアプローチをblastするためにも。

矢島三枝子さん(翻訳家)

こんばんは、映画とっても面白かったです!...と書くとものすごい紋切り型ですが、本当に面白かった。観終わるのが惜しかったです。

ものすごく形にするのが難しいものを、立派に愛情込めてまとめておられるように思いました。畠山さんが、きっとあの状況を歩いて(震災前もあとも)、関わって手で触れながら作品作っておられるような感じが、自分には「絵画的」と言われていたようなことのように思いました。一瞬を切り取るだけじゃなくて、手で描くような関わり方を感じました。 それを見ることが出来たことで、さして面白くもないというか、問題の多い東京での自分の生活も、もう一度一生懸命関わって生きていこうと思いました。
あの淡々とした情景を見ていて、ほんとになんでか、勇気づけられたのです。
起承転結分かりやすい話でないものまとめるのってすごいことだなあと思います。
しかも面白いって、なんなんでしょう、不思議。

横山さん(20代女性)

昨日、作品を拝見させて頂きまた。
私も陸前高田市気仙町出身で、畠山さんのご実家から近いです。震災後、ずっと罪悪感とモヤモヤした感情を抱いており、家族・友人にも話せず、気持ちの整理ができないまま過ごしています。畠山さんの一言一言が、私の気持ちの一部を言葉にしてくれており、救われました。ありがとうございます。

地元出身の有名な写真家さんが居る事も、恥ずかしながら初めて知りました。
写真に興味のない私が、このような形で、このタイミングで畠山さんと出会えたご縁に、感謝いたします。

埼玉在住の女性の方

もちろん畠山さんが震災の後で、故郷の写真を発表するようになったのは大きな変化です。でも考えてみれば写真ってもの凄く幅が広いものであって、カメラを持てばつい撮ってしまうものはたくさんある訳で、我々が触れる背後にもの凄くたくさんの実 際には目に触れない…映画の中で彼が言ってたけど、作品がどうか分からないけども、美術館で展示する時は写真家としての作品だと思わければならない、と言ってま したね。写真の幅広さからすれば、これまで見えなかった物が、見えなかった層が、震災を機に一気に出てきたということですよね。

写真にはいろいろなものがあると、さっき言いましたけれど、そうは言うものの、写真の素朴さ、我々の実感として、常に子供の頃から親しんできたあり方としては、やっぱり何かを記憶する、記念するものだという事があって、その記念していた出来事とか、写されている人が失われてしまったら、これは物凄く大きな意味を持って、もう 一度、写真自体が大変に大切なもの、貴重なものとして浮かび上がってくる、1番素朴な形での大切さというものが、やはり明らかになったのかなと思いますね。

管啓次郎さん(詩人、比較文学)

畠山さんは筑波大学学生時代から、時代と関係なく、自分のスタイルを築いてきた珍しい一人だと思います。

今回、人間たちの社会が一つ失われた状況の中で、どうしてカメラを向けることが出来たのか、混乱のまま向けた様なきがするけれども…どうして今までのスタ イルを壊さずに、揺れ動きつつ、揺れ動いた結果、自分の中でどう決着を付けたのかを直接聞いてみたかったです。目の前に広がる光景にショックは受けている ものの、畠山直哉さんも、もし大辻先生が生きていても、「実存が現象的にすごいことになっていく」ことにショックを受けていたのだろうと思いました。

畠山さんの態度に悩みが足りていないのではなく、ちゃんと希望が態度の中に消えていないと、感じました。

大辻さんの教え子には、徹底的な絶望をしている人は皆無ですね。どこか楽観的な態度です。それが力強さになっている気がします。

島尾伸三さん(写真家)