監督・畠山容平

Director’s Statement

畠山容平 プロフィール

1972年横浜市生まれ。映像系の専門学校を卒業。その後、自主制作の映画活動を友人としながら、プロの現場でADも経験していく。27歳の時にNPO法人映画美学校・ドキュメンタリー科にて映画監督の佐藤真に師事し、「映画監督って何だ?」メイキング版にて助監督を務める。2011年に「テレビに挑戦した男・牛山純一」で監督デビュー。2012年にはヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展日本館展示「ここに、建築は、可能か」のビデオ映像の撮影と編集を担当。今作品が2作目になる。

『監督から 少々長い、映画までの経緯』

今回の作品は2012年の3月11日から撮影がスタートしました。その約2年間に渡って、断続的にカメラを回しました。最初から映画にしようという目論見は薄く、建築家の伊東豊雄さんが計画した、被災した市民の憩いの場「みんなの家」プロジェクトに参加したことで、最初に直哉さんに関する短い紹介VTRを作った事が、結果的に言えば、映画へのきっかけになったと思います。この時は直哉さんが写真担当、私がビデオ担当ということもあり、陸前高田では一緒に行動していたので、その合間に撮っていたものが溜まっていったのだと思います。

震災後は、多くのアーティストや表現者が呆然自失、言葉にならないと言いながらも数多くの作品が世の中に溢れ返りました。やはり、それだけの事が起きた事は言うまでもありません。その中で直哉さんが震災後に発表してきた写真や文章は多くは語らないものの、全体のあり方よりも個人の人間のあり方を示唆するものとして、私には印象に残りました。彼が書いた幾つかの文章には、極限状態の中にいた彼の穏やかざる心中が克明に記されていましたが、それでもギリギリのところで冷静さを保っている直哉さんの文章に大変共感しました。あの惨状を目の前にして「悔しい」という言葉がありました。惨状になる前のおだやかで美しい現実を知っている直哉さんだからこそ、震災前の風化出来ない記憶を写真として示したと思います。そしてその悔しさがあるからこそ、前向きな気持ちを生み出し、その後続けられる撮影に繋がっていったと思います。

震災後の直哉さんの写真を見ていてまず思ったことは、この写真を撮っている直哉さんの心のありようでした。私たちの前では、そんなに暗い表情を見せる様なことはありませんが、やっぱり悲嘆に暮れている、時には怒っているのではないかと、感じることでした。写真から悲しさが透けて見えてくる、そんな感覚を直哉さんの作品を見て感じたことは今まで無かったことでした。それは私が畠山直哉という人間を知っているからなのか、そんな疑問も頭を擡げましたが、風景写真が何かを雄弁に語り掛けてくるような感覚に身を委ねました。そこに写し出されているものは、直哉さんが言う様に「晴れがましい」ものでもなく、ただただ陸前高田の現在の風景=あまりにも被害が甚大だった為に復興がなかなか進まない、ある意味では廃墟と化した場所でした。直哉さんはこの4年間に5千カットにも及ぶ膨大な写真を撮りました。性急な写真ではないものを求めてきた言う通り、これまでの復興のプロセスと言うべきものが、そこには写されていました。震災後1年や2年の経過時点から振り返れば、遅々と進んでいない様に見えた復興は、地道な努力と共に組織的に計画的に進んできたことが分かってきます。

もともと直哉さんの写真には、おぞましいものや否定的に捉えられがちなものでも、美しく肯定的に写してしまう、不思議な力があると思います。例えば、代表作の「ライムワークス」で撮影された石灰石鉱山の写真群などは、環境保護の観点に立てば、とても悠長に写真は見ていられないかもしれませんが、そこにはあるがままの物質の姿、自然そのものが写されているだけで、何かを意図的に批判しようとするような視線は感じられません。寧ろ、人間の思考を狭めてしまうものから解放してくれるような写真の力を見ることができました。

これまでの4年間を「淡々と撮ってきた」と簡単に言っていいものか、もちろん彼の中では様々な葛藤があったことでしょうし、振り返ってみればあっという間の時間経過だったと思います。直哉さんが長期間に渡って撮り続けられる秘訣はどこにあるのかと詮索してみると、「誰かを超えた何者かにこの出来事全体を報告したくて写真を撮っている」という発言にぶつかります。一度聞いただけではすぐには納得出来ないこの言葉の意味を考えながら、この映画を作り続けました。人間を超えた何かは、宗教的な超越者、もちろん神ではありません。畠山さんの仕事には一貫した哲学があると思います。徹底して自分の頭で考える、あらゆる依存を拒むものです。それを突き詰めて行けば人間理性の限界に直面した時にそれを超える何者かに出会わざるを得ません。つまり、私では無い何者かが主体となって、この私を見ているという様な、自己を観察する様な目を持っている。その方がよりリアルに私やら世界やらが見えくる、ということだと思いますが、畠山さんの透徹した眼差しは、その様な思考を経て生まれてくるのだと思います。

私の中では、いつ頃からか写真を見ていると「ここに住みなさい」と言われてる様な気持ちになってきました。こんな所から、否、こんな所になってしまったからこそ、ここに住めるだけの叡智を集めて、磨かなければならない、新たな未来に向けて人間に課せられた課題なのだと思えてきます。

写真集「気仙川」の後書きに、もう少しこのまま「後ろ向き」でいさてくれ、という言葉があります。これは何もかも忘れてすぐには前向きにはなれない、マスメディアが垂れ流す、「みんなひとつ」だみたいな欺瞞的なメッセージに対して、実は一人一人違った感情を持っているし、直哉さんは彼なりの仕方で復興に関わる、つまり一人の写真家として関わっていくことだと思います。震災後から始まったメディアの自主規制、震災対応の表現に対して、畠山さんは表現者として自分の関わり方を模索していたと思います。ある意味では、彼は写真家としては、これまでの自分を裏切ることなく、普段通りのことをし続けている。その事は震災という非常事態が起こった時には、周囲の理解が得られなかったり、非難されることだってある筈です。しかし、震災から早4年とは言え、故郷の風景写真だけを撮り続けていた人が他にいるだろうか、僕は寡聞にして聞いてことがない。では何故そんなことが続けられるのかと言えば「くやしさや悲しさを胸の奥で共有したい」という静かな思いが溢れていたのだと思います。それこそが真の復興を望む一人の人間のあり方だったのではないかと思います。